
『死』が頭から離れません

妊娠34週の健診で
高血圧とタンパク尿を指摘され緊急入院、
翌日、総合病院に転院し、その日の午後に
帝王切開の予定でした。
が、お昼頃に背中の激痛に襲われ、
あれよあれよと全身麻酔下による
緊急帝王切開になりました。
術中に出血が止まらなくなり輸血。
なんとか止血しましたが、
その影響で著しい腎機能低下を起こし、
ICUで2週間ほど人工透析治療を受けました。
透析は無事に終わったものの、
今度は高熱が続きました。
1ヶ月経っても解熱せず、
子宮に悪露が溜まっているのかも?
となり、子宮内掻爬術を行いましたが状況は変わらず
最終的にMRIで詳しく調べた結果
輸血したときの影響で
子宮が壊死していることが判明しました。
・・・わたしが生きるために残された道は
子宮全摘出しかありませんでした。
想像もしていなかった壮絶な出産。
一時は絶望の日々でしたが、
赤ちゃんもわたしも生きていた。
今は、それがどれだけ尊く幸せなことか
気付かされています。
わたしは子どもが大好きで
そして息子に兄弟を作ってあげたい。
旦那に、もうひとり子どもを作ってあげたい。
子どもは2人。それが人生の目標、夢でした。
なので、きょうだいのいる友達を見ると
すごく胸が締め付けられます。
そして、
もっと純粋に子育てを楽しみたいのに
この壮絶な体験をしてからずっと
『死』が頭から離れません。
人は死ぬ、ということは当たり前で
もちろん理解していたことなのですが、
毎日がとても短く感じ、
朝起きるとまた死に近づいた・・・
怖い。ずっと生きていたい。
人間はなぜ死んでしまうのか。
気づいたらおばあちゃんになっているんじゃないか。
など考えて憂鬱です。
子どものためなら命もかけられる、
などと言いますが、
わたしはこんなにもかわいい子どもと
ずっと一緒にいたいと考えてしまいます。
わたしは少しおかしいのでしょうか。
自分のことがかわいいのでしょうか。
自分本位すぎますよね。
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死を考えることは、
どう生きるかを考えることです。
限りある時間について考えることですよね。
当たり前のように
「子どもは2人」と思っていたのに
子宮全摘というまさかの出来事によって
その道を歩めなくなってしまったわけで
周りの友達が
2人目を出産しているのを見ると
自分だけ取り残されたような気持ちになるのは
それこそ当たり前の感情だと思います。
見本のない人生をどう生きるか。
彼女にとって大きな課題であり
不安でもあるでしょう。
なんで自分が、稀にみるような
壮絶な出産になったんだろう・・・
なんで自分が、
子宮を失わなくちゃいけなかったんだろう・・・
つまり彼女は
『人生の意味』みたいなことを
考えているのだと思います。
災難だと考える人もいると思うのですが、
意味を探すということも重要な気がします。
人生において『まさか』が起きたことをきっかけに
自分の人生を問い直してみる
いい機会にもなります。
当たり前の道を歩いていたら
できなかっただろうことを
当たり前じゃない人生になったからこそ
たくさんできる、ってこともありますね。
わたしは10人目出産のとき
産後の大量出血で死にかけました。
バケツをひっくり返したような
バシャバシャと床に跳ね返る血液の音と、
産科スタッフが慌ただしく止血処置する
テンパった声を
遠のく意識の中でぼんやり聴きながら
死を強く意識したのを憶えています。
無事に生還し、
赤ちゃんもわたしも生きているって知ったとき
『命はいつかなくなるんだ』
と改めて思ったんですよね。
普段は考えもしなかった
『死』について考える機会が増え
同時に『生』に執着するようになりました。
にもかかわらず・・・ですよ!
その数ヶ月後、
わたしは自殺未遂をしました。
10人目出産で感じた
強い『生』への執着さえ
どこかに置き忘れてきてしまうほどの
巨大な精神的ストレスを抱える出来事。
生きてる意味がわからない。
・・・もういいや。
でも結局死にきれなくて
わたしは生きていました。
自分が死んだら、
幼い子どもたちはどうなってしまうんだろう・・・
あとで冷静になって考えたとき
恐ろしさで胸がつぶれそうになりました。
どん底のわたしを
周囲の人たちが温かく支えてくれて、
子どもたちの笑顔に支えられ
数年かかりましたが、
わたしは、わたしの身近な誰かにとって
かけがえのない大切な存在なんだと
確信するに至りました。
そしてわたしにも「大切に思う誰か」がいて、
わたしの大切な誰かは、
困難な状況を乗り越え、
成長する力を持っているのだということにも
気づきました。
人が持っている偉大な力。
それを信じることは、わたしが未来に進む力を
与えてくれました。
死ぬことは怖いですよね。
かわいい子どもたちとずっと一緒に過ごしたい。
大好きな旦那さんとずっと寄り添っていきたい。
自己中心的かもしれないけど、
わたしも彼女と同様、まだまだ生きていたい
って思っています。
死に直結するような体験をしたことで
生きること、死ぬこと、いたわり合うこと
大切なことをたくさん学びました。
彼女もそうだと思います。
また、わたしは医療従事者として
『死』は、一般の方達以上に現実的です。
いつか必ず死ぬのであれば、
それまでをどう生きるか。
明日生きているという
確実な保証がないのであれば
今日をどう生きるか・・・
毎日毎日を大切にしたいと
切に思います。
生きること、死ぬことを悶々と考える。
その答えのない問いは
彼女が生きていくことに豊かさを与えてくれるのでは
ないかと思います。
取り残されるのではなく
誇りを持って進めたら素敵です。
それから、
子どもに『死』を教えるということは
とても重要です。
彼女が経験した、現実味を帯びた死。
それに対する恐怖。
『生』への執着。
だいたい8歳ぐらいになると
子どもは死を理解すると言われています。
なのでぜひ、このできごとを子どもから遠ざけることなく
真剣にお話してあげてほしいと思います。
ゲームの世界に浸かってしまっている
今の子どもたちに、
人が死ぬとはどういうことか。
そして生きているということが
どれだけ大切なのか
本当の意味で理解してもらうには
彼女が今、抱えている
『生』への執着は、とても大切な感情だと思いますよ♪





